カテゴリ: 翻訳

法律や規則の改正に伴って用語が変更されることもある。
ただし、新しい用語がすぐに浸透するわけではなく、新旧用語の併存状態が続くこともある。

日本の標準化規格の JIS (Japanese Industrial Standard) は、以前は日本工業規格と呼んでいた。
最近、日本産業規格に変更されたという話を聞いたことがあった。

いつもは略語の JIS ばかり使っていて、うろ覚えだったので、経済産業省のサイトで確認してみた。
すると、JIS法改正に伴って、2019年7月1日から新名称の「日本産業規格」を使うことになっていた。
www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun-kijun/jisho/jis.html

標準化の対象範囲がデータやサービスなどに広がったため、「日本産業規格」に変えて対応したということだ。

もう2年以上経過しているが、2021年出願でも「日本工業規格」と書いてある特許を見た。
既に対応して「日本産業規格」と書いている特許もあるので、現時点では併存している状況だ。

それで、最近発行された三省堂国語辞典第8版を見ると、日本工業規格と日本産業規格の両方が見出し語になっている。

日本工業規格の説明では、日本産業規格を参照するように書いてある。
そして日本産業規格の説明には、「日本工業規格を改めたもの」とあるので、今は日本産業規格を使うことが明らかになっている。

それでは、Japanese Industrial Standard から英文和訳をする人は、どちらを選択するだろうか。

例えば、研究社のオンライン辞書サービス KOD で JIS を検索すると、「日本工業規格」のみだ。
データは随時更新されているが、「日本産業規格」はまだ採用されていない。

私が有料で契約している化学情報協会の JAICI Science Dictionary Pro でも、残念ながら「日本工業規格」だった。

では、英辞郎ではどうかというと、「日本産業規格」になっている。
名称の変更についても記載がある。

有料サービスの方が古いというのも困るので、「日本産業規格」の採録の要望を出さないといけないのかもしれない。
とりあえず、「日本工業規格」と書いている人に出会ったら、「日本産業規格」に修正するように提案しよう。

翻訳者の SNS で Forbes 日本版での DeepL の記事が話題となっているようだ。
記事のリンクは次の通り。
forbesjapan.com/articles/detail/45199

記事では PDFファイルの翻訳など、便利な新機能についても紹介している。
それはここでは触れないので、リンク先の記事を読んでほしい。

興味があるのは翻訳精度だ。
機械翻訳後の修正作業、つまりポストエディットは絶対に必要だが、その修正量が少なければ、大量の文書を読むときにストレスは減る。

記事中では、他の機械翻訳サービスとの比較が示されている。
翻訳者を対象にしたブラインドテストで、テストしたすべての言語ペアで DeepL が高評価だったという。

それで気を付けてほしいのは、示された言語ペアは、どれもヨーロッパ言語間であることだ。
日本語とのペアでどうなるかは全く不明である。
英日や独日などでも、DeepL の方が優秀かもしれないと期待してもよいが、きちんとした検証結果を待たねばならない。

DeepL は大量の対訳データベースで学習しているようで、EU の大量の翻訳資産を使えば、加盟国の公用語間で精度を上げてゆくことは可能だろう。

ただ、学習に使う英日ペアの対訳データベースがまともであるかどうかが気がかりだ。
なんでもかんでも読み込めばよいというわけではない。

特許の機械翻訳の会合でも、特許庁に出願された和訳であっても、誤訳の有無を再チェックしないと使えないと指摘があった。
私が専門の化学でも、今では絶対に使わない用語を平気で使い続けている出願人もいるので、困っているし。

それに加えて、英語以外の場合、間に英語をはさんだ二段階翻訳だと思われるので、エラーが増加するリスクがある。
独日翻訳の場合、いくら独英ペアが優秀でも、英日ペアの精度が低ければ修正量が増えてしまうだろう。

ということは、ドイツ語やフランス語などを日本語ではなく、英語に翻訳させて、自分ではその英訳を読んで内容把握するのが安全ではないか。

それでも、その英訳が正しいという前提なので、とんでもない誤訳を見逃してしまうリスクは残る。
やはり最終的には、人間の翻訳者が各ステップに関与しないといけないのではないか。

人間もミスするのだから、機械翻訳のエラーばかりを批判はできないかもしれない。
ただ、仕事で使えると鵜呑みにした人たちが増えると、ポストエディットすらしなくなり、とんでもない損失を被る事態を招きそうだ。

とりあえず、個人的な興味の範囲で、記事に何が書いてあるのか概要を知りたいときに試すだけにしておきたい。
責任が伴う業務に使うのは避けたいものだ。

英日や独日の翻訳チェックで、肉眼とすべき訳語が裸眼になっていて、修正した経験が何度かある。

例えば、溶液の調製の説明で、「不溶物の有無を肉眼で判定する」となるはずが、「不溶物の有無を裸眼で判定する」となっていた。

「裸眼で判定する」という実験手順だと、眼鏡をはずしたとたんに見えなくなる人は困ることだろう。

日本人だからといって、翻訳者だからといって、言葉の定義を完璧に知っているわけではない。
それでも、有名な例だったり、翻訳の話題に登場する言葉については、知っておいてほしいと思うこともある。

この肉眼裸眼は、どちらも補助する器具を使わない点では共通しているが、どのような器具を使わないかに応じて使い分けている。

「肉眼」は、顕微鏡や望遠鏡などの光学機器を使わないことであり、「裸眼」は、眼鏡やコンタクトレンズなどの視力矯正器具を使わないことである。

ただし、ネット上で見つかる解説の中には、眼鏡を使わないことも肉眼としている場合がある。

また、理系の執筆者なのに、「肉眼」とすべきところを「裸眼」と書いている人もいるし、海外報道の和訳記事でも間違っていることがあるので、ネット検索結果をそのまま信用せず、複数の情報源で確認してほしい。

日本語では区別しているが、英語ではどちらも the naked eyeドイツ語でもどちらも bloßes Auge であることに注意してほしい。

この日本語と英語との違いについて話題にしている、野村益寛・北海道大学教授の研究紹介のサイトを参照してほしい。
www.let.hokudai.ac.jp/staff/nomura-masuhiro#1-2

ここまで、日本語では「肉眼」と「裸眼」とを区別するという前提で書いてきたが、英和辞典の語義説明を読んだだけではわからない。

ある英和辞典で naked eye を調べると、「[the ~] 肉眼, 裸眼」のみで、その区別はわからない。
別の英和辞典では、「[the ~] (眼鏡などを用いない) 肉眼, 裸眼」となっており、肉眼の定義を誤解する記載だ。
また、日本医学会医学用語辞典では、「肉眼」のみで、「裸眼」は採録されていない。

私が所有する独和辞典では、「肉眼, 裸眼」の併記もあるが、「肉眼」のみの方が多かった。

「肉眼」のみが載っている辞書だけを使っている人は、逆に、「裸眼」とすべきなのに「肉眼」と和訳するかもしれない。

ところで、この「肉眼」と「裸眼」については、大学院生のときの嫌な思い出がある。

私の研究対象の化合物では、反応が完了したことを反応溶液の色の変化で判断できることも多かった。

それで研究室内セミナーの資料に「The completion of the reaction can be determined by the naked-eye observation.」と、「肉眼でわかる」という意味で書いたところ、東大卒の助手からクレームがあり、削除を求められた。

そのクレームとは、
「naked eye は『裸眼』の意味だ。眼鏡をかけて実験したら当てはまらない」と。

私は「肉眼」の意味について説明して反論したが、その助手は「裸眼だ」と譲らない。
もめ事を嫌う教授の指示により、仕方なくその表現を削除することになった。

研究者は専門用語の厳密な定義についてうるさいことが多いが、私が経験した肉眼・裸眼論争は無意味なものではないか。
文脈で naked eye は肉眼だとわかると思うのだが。
訳語が裸眼しかないと信じている人には通じないのかもしれない。

これからも翻訳では様々な言葉に出会うことになるので、時間的余裕がないこともあるが、できるだけ幅広く情報を集めて判断したいものだ。

予約注文していた三修社・アクセス独和辞典第4版が2月28日昼に入荷した。
教会でいろいろと作業をしてから、帰宅する途中で紀伊国屋書店に寄って受け取った。

何度も書いている化合物名の Benzol は、新しい第4版でも第3版と変わらず、ベンゾール,ベンゼンの併記だった。

「ベンゾールと呼ぶのはやめよう」と主張しても、日本企業が出願している特許でまだ「ベンゾール」を使っているので、死語にはなっていないということか。

第4版で新しく採録された言葉から2つ例示しよう。
まずはデジタル時代に、ほぼ毎日行っていることを表す動詞である。

googeln [他動詞] 〔…4を〕グーグルで検索する

スペースが少し余っているので、「ググる」も記載してよかったのではないだろうか。

スペリングで気を付けたいのは、Google が元になっている動詞だが、googlen ではなく、 googeln が正しいということ。

DUDEN では 2004年に既に掲載されていたそうだが、10年以上経過してようやく日本の独和辞典でも採用されることになった。
2010年刊行の第3版では twittern は載っていたので、以前は使用頻度の差があったのかもしれない。

もう1つ最新の言葉として COVID-19 が採録された。
以前紹介したように、これは中性名詞で、ふつうは無冠詞で使うことも書いてある。

また関連して、Coronavirus コロナウイルス も採録されている。

他にも細かいことだが、語義解説の階層区分が変わっているところもあった。

例えば、動詞 sorgen は、第3版では 1 自動詞の説明が①と②であったが、そのうちの②が第4版では、②と③にさらに分けて説明してあった。

また、新正書法に関連した説明を枠で囲って掲載している点が、学習用としても推薦できる特徴だろう。

例えば、旧正書法での見出し語 daß は、第3版では単に dass の旧正書法 という説明のみだったが、第4版では = 新 dass の次に枠で囲った dass と daß という説明が追加されているのは、ドイツ語を習い始めた人にとって親切だ。

古い言葉も載っている辞書と、新しい言葉が載っているアクセス独和辞典と、どちらも大切にして併用していきたいものだ。

理系研究職から翻訳者に転職した人はどれくらいいるのだろうか。
メーカー研究所の大量リストラがあるたびに、一部の人数であっても特許翻訳に参入すれば、人材不足がいくらか解消するのではないかと思う。

化学や医薬の特許で面倒なのは、化合物名の扱いだ。
正式な IUPAC名のこともあれば、慣用名だったり、商品名だったり、統一されていない。

また、英語を使って命名する IUPAC 名で書いてあっても、日本語名称を作るときに間違えてしまうこともある。
誤訳の場合、日本語名称を読んでもその分子構造がわからないこともある。

構造式があれば、日本語名称の作り方を間違えたことが一目瞭然であるが、元々化学に慣れていない翻訳者では判断も困難かもしれない。

最近も海外メーカーの出願を調べていて、和訳された特許公報で10件ほど、ヘキサンジオン酸という見慣れないカルボン酸の名称を使っていることに気づいた。

オリジナルの英語明細書を確認すると、hexanedioic acid であり、その誘導体の構造式が出ている特許でも確認すると、命名するための基本骨格となる母体化合物は、以下に示すように炭素数6個の直鎖ジカルボン酸であった。
hexanedioic acid

優先IUPAC名(PIN) hexanedioic acid
日本語名称(PIN)   ヘキサン二酸 (注:二は漢数字)

一般IUPAC名(GIN) adipic acid
日本語名称(GIN)  アジピン酸

正式な PIN のヘキサン二酸よりも、保存名である GIN のアジピン酸の方を見聞きしたことが多いだろう。
ただ、ヘキサン二酸の方が、骨格の炭素数も、カルボン酸部分が2つあることも、簡単にわかるので好ましい。

直鎖炭化水素由来のジカルボン酸を表す ..dioic acid の部分を「…ジオン酸」と誤解したために、誤訳になってしまった。

日本の有名なメーカーでも、ジカルボン酸を「…ジオン酸」として特許明細書に書いているので、正式な名称だと勘違いしたのかもしれない。

さらに、試薬カタログでも「…ジオン酸」が出てくるので、参考資料にできない。

簡単そうに見える化合物名でも、念のために命名法と日本語名称の作り方を確認した方がよいだろう。

化合物命名法の本はいくつか市販されているので、参考資料として持っていて損はない。

ただし、最新の命名法の本なのに誤記が多数あるので、改訂版が出るまでは、出版社のサイトで正誤表を入手しておく必要がある。

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