理系研究職から翻訳者に転職した人はどれくらいいるのだろうか。
メーカー研究所の大量リストラがあるたびに、一部の人数であっても特許翻訳に参入すれば、人材不足がいくらか解消するのではないかと思う。

化学や医薬の特許で面倒なのは、化合物名の扱いだ。
正式な IUPAC名のこともあれば、慣用名だったり、商品名だったり、統一されていない。

また、英語を使って命名する IUPAC 名で書いてあっても、日本語名称を作るときに間違えてしまうこともある。
誤訳の場合、日本語名称を読んでもその分子構造がわからないこともある。

構造式があれば、日本語名称の作り方を間違えたことが一目瞭然であるが、元々化学に慣れていない翻訳者では判断も困難かもしれない。

最近も海外メーカーの出願を調べていて、和訳された特許公報で10件ほど、ヘキサンジオン酸という見慣れないカルボン酸の名称を使っていることに気づいた。

オリジナルの英語明細書を確認すると、hexanedioic acid であり、その誘導体の構造式が出ている特許でも確認すると、命名するための基本骨格となる母体化合物は、以下に示すように炭素数6個の直鎖ジカルボン酸であった。
hexanedioic acid

優先IUPAC名(PIN) hexanedioic acid
日本語名称(PIN)   ヘキサン二酸 (注:二は漢数字)

一般IUPAC名(GIN) adipic acid
日本語名称(GIN)  アジピン酸

正式な PIN のヘキサン二酸よりも、保存名である GIN のアジピン酸の方を見聞きしたことが多いだろう。
ただ、ヘキサン二酸の方が、骨格の炭素数も、カルボン酸部分が2つあることも、簡単にわかるので好ましい。

直鎖炭化水素由来のジカルボン酸を表す ..dioic acid の部分を「…ジオン酸」と誤解したために、誤訳になってしまった。

日本の有名なメーカーでも、ジカルボン酸を「…ジオン酸」として特許明細書に書いているので、正式な名称だと勘違いしたのかもしれない。

さらに、試薬カタログでも「…ジオン酸」が出てくるので、参考資料にできない。

簡単そうに見える化合物名でも、念のために命名法と日本語名称の作り方を確認した方がよいだろう。

化合物命名法の本はいくつか市販されているので、参考資料として持っていて損はない。

ただし、最新の命名法の本なのに誤記が多数あるので、改訂版が出るまでは、出版社のサイトで正誤表を入手しておく必要がある。

学術用語の定義も変わることがあり、古い文献を読むときには注意が必要なことも多い。
また、使用が推奨されていない用語であっても、特定の分野では使われ続けることもある。

化学専門の博士であっても、すべてを知っているわけではないので、学生時代の知識に頼らず、改訂の有無を含めて、慎重な調査を怠ってはならない。

今回は、alcohol (アルコール)ROH の共役塩基であるアニオン種 RO- の名称を取り上げよう。
alkoxide(アルコキシド)と alcoholate(アルコラート)の2種類あり、alkoxide の方が優先される。

具体的なアルコールとして、methanol(メタノール)CH3OH では、「ヒドロキシ化合物に由来するアニオン」の命名法を適用して以下のように命名する。

CH3O- methoxide(メトキシド)  
PIN(優先IUPAC名)
      methanolate(メタノラート)
GIN(一般IUPAC名)

どちらもアニオン種の名称なのだが、alcoholate には、「アルコール和物」という「溶媒和物」としての意味もある。
さらに、「酒精剤」という薬学用語もある(英語では spirit を使うことが多い)。

alcoholate は多義語なのだが、IUPAC では、alcoholate を溶媒和物に使ってはならないとしている。
語尾の -ate は、アニオンを表すことが多いからだ。

IUPAC の Gold Book の説明は次の通り。

Synonymous with alkoxides. Alcoholate should not be used for solvates derived from an alcohol such as CaCl2
nROH, for the ending -ate often occurs in names for anions.

そのため「アルコール和物」
を英語では alcohol adduct (アルコール付加物)と書くことが増えた。
「メタノール和物」であれば、methanol adduct だ。

それでも、最近の論文や特許であっても、アルコール和物の意味で alcoholate を使っていることがあるので、注意が必要だ。

逆に、IUPAC の定義に忠実にアニオン種の意味で alcoholate を使っているのに、「アルコール和物」と間違って和訳した特許も出願されていた。

誤訳をしないためには、構造式や本文の説明、そして実験の部も読んで、alcoholate がアニオン種なのかどうかを確認しなければならないだろう。

ところで、日本語版のウィキペディアでは、alcoholate の説明が間違っているように思われる。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%89
(2021年01月06日22時52分にアクセス)
----------
IUPAC命名法ではアルコキシドの別名としてアルコラート (alcoholate) という呼称も許容するが、アニオン種を表す場合はアルコラートと呼ぶことができない[1]。
----------

様々なサイトでそのまま引用されているのだが、これだけ広まってしまった場合、修正提案はどうしたらよいのだろうか。

従属接続詞 da には、主文に先行する理由・原因を表す副文を導く用例が多い。
しかし他にも、相反・譲歩の副文を導く場合、そして今回取り上げる、時の副文を導く場合がある。

時の副文を導く場合は古い用法であるが、雅語なので聖書には出てくる。

da II 接 ((従属)) 3 ((時の副文を導く)) a) ((過去時称の文で)) ((雅)) (als) (…した)とき<当時>に

詩編139編16節を引用しよう。

Luther 2017:
16 Deine Augen sahen mich, da ich noch nicht bereitet war,
und alle Tage waren in dein Buch geschrieben, die noch werden sollten.


新共同訳:
16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
  わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
  まだその一日も造られないうちから。


聖書協会共同訳:
16 胎児の私をあなたの目は見ていた。
  すべてはあなたの書に記されている
  形づくられた日々の まだその一日も始まらないうちから。


接続詞 als で書き換えることができ、例えば、Schlachter 1951 では als を使っている。

Schlachter 1951:
16 Deine Augen sahen mich, als ich noch unentwickelt war,
und es waren alle Tage in dein Buch geschrieben, die noch werden sollten,
als derselben noch keiner war.

↑このページのトップヘ