大学で化学を専攻することに決めていた私は、高校化学の教科書では飽き足らず、高校3年のときに受験勉強をしながら、大学教養課程レベルの有機化学と無機化学の専門書を読んでいた。

高校3年のときには他にも、ドイツ語と中国語もかじっていて、海外短波放送の趣味と合わせて、受験勉強のストレスから解放される貴重な時間であった。

無機化学の専門書は、原著の英語から和訳したもので、章ごとに複数の大学教授が手分けして訳していた。
すると、章ごとに、貴ガス希ガスの両方の訳語が出てくることに気づいた。
出版社に質問したところ、次回の増刷時に統一するという回答があった。
ただ、どちらになったのか確認しないままとなった。

当時は高校化学の教科書でも「希ガス」と書かれており、大学でも「希ガス」と書くことが多かった。

英語では、以前は rare gas と書いていたので、和訳は希ガスでもよかったが、noble gas と書くことが主流となってからは、貴ガスにすべきという意見も増えてきた。

ちなみに、ドイツ語では Edelgas

1898年に刊行されたドイツ語の無機化学の専門書 "Lehrbuch der anorganische Chemie" (Hugo Erdmann) で初めて使われた。
Google Books の次のリンクから目次を見ると、226ページから "Edelgase (He, Ar)" の説明がある。
books.google.co.jp/books

2年後の 1900年には、Ne と Kr の物性などが追加された第2版が刊行された。
Nature の書評欄での紹介は次のリンクから。

www.nature.com/articles/063178e0

"... information about the new gases — here called Edelgase, ..." と書いてあり、2年経過してもまだ noble gas は使われていない。

1901年の Science の書評欄で noble gas という直訳での英語表記が現れたそうだ。
science.sciencemag.org/content/13/320/268

2005年に発表された
 IUPAC の無機化学命名法の勧告では、公認された18族元素の集合的名称は noble gas になっている。
次のリンクで51ページを見てほしい。
old.iupac.org/publications/books/rbook/Red_Book_2005.pdf

この勧告の和訳、「無機化学命名法-IUPAC 2005年勧告-」(東京化学同人)では、45ページに、貴ガス noble gas (He, Ne, Ar, Kr, Xe, Rn)」と書いてある(訳注も参照)。

日本化学会では、貴ガスを使うことを提案していて、文部科学省も、新しく検定を受ける教科書では「貴ガス」と書くように指導している。

例えば、日本化学会化学用語検討小委員会の「高校学校化学で用いる用語に関する提案(1)」は、次のリンクから。
www.jstage.jst.go.jp/article/kakyoshi/63/4/63_KJ00010110201/_pdf/-char/ja

日本化学会の雑誌「化学と教育」では、メンデレーエフの周期表誕生150年に関する記事で、「貴ガス」にしている。
www.jstage.jst.go.jp/article/kakyoshi/67/6/67_262/_pdf

ただし、2020年3月の日本化学会年会の発表では、講演題目を見ると、「貴ガス」「希ガス」の両方が使われていて、まだ過渡期のようだ。
最新の特許を検索してみても、「貴ガス」「希ガス」の両方が使われている。
同じ文書内で混在することはないが、まだ「貴ガス」への移行は完了していないようだ。

Nature Digest 日本語版では、「希ガス」を使っている。

そして、
「日経サイエンス」2020年5月号では、noble gas の和訳として、希ガス貴ガス)」という併記が用いられている。

「英語で読む日経サイエンス」に掲載された記事のリンクは次の通り。
www.nikkei-science.com/

この記事では「希ガス」を優先的な訳語にしているので、他の箇所では併記せずに、すべて「希ガス」のみとなっている。
日本化学会の提案や、現在の高校化学教科書の記述を尊重すれば、逆の「貴ガス(希ガス)」の方が望ましい表記かもしれない。

それでも、片方だけ書くより、初出時に両方を併記しておくのは、読み手に配慮した和訳と言えるかもしれない。
「貴ガス」だけだと、変更前の教育を受けた読者は戸惑ってしまうだろう。
日経サイエンスを読むのは、化学者だけではないからだ。

私は化学者として、特に化合物名について、最新の規則通りの命名法で特許を書いてほしいと言ってきた。
ただ、専門的な内容でも、対象読者層が幅広い場合は、日経サイエンスのように、新旧併記ということも考えた方がよいかもしれない。

「希ガス」がまだ使われているが、科学用語集で noble gas 貴ガス の次に、noble metal 貴金属 が続けば、一貫性があると思ってもらえそうだ。

自民党公報がツイッターで、ダーウィンの進化論を誤用した言い回しを使って、憲法改正の必要性を訴えているそうだ。
そして多くの人々が、その無知を批判する投稿をしている。

朝日新聞の取材によると、「憲法改正について、国民の皆様にわかりやすくご理解していただくために、表現させていただきました」とのことだ。
www.asahi.com/articles/ASN6Q6674N6QULBJ00V.html

しかし、生物の進化や多様性を考えるための学説が、どうして憲法改正に関係するのか、その説明はないようだ。

自民党としては小泉郵政改革の頃から、知的レベルが低いと分類された層、いわゆるB層をターゲットにして世論誘導をしているようなので、詳しい説明などせずに有名な科学者の名前で権威付けして、なんとなくそんな感じだという雰囲気づくりをしているだけだろう。

私が好きな岩波書店は、そのような勘違いをしてしまう人向けに、進化論についてわかりやすく解説した絵本を紹介している。
以下に示したツイッターを参照してほしい。



勝手な推測で申し訳ないが、安倍晋三首相は嘘ばかり言うし、憲法の勉強もしていないし歴史も知らないし、読めない漢字も多いようなので、自分で専門書を読んで進化論を勉強したことはないだろう。

いきなり難しい進化論の専門書を読んでも理解できそうにないので、岩波書店が親切に推薦してくれた、小学3年生からおとなまで楽しめる絵本、
ダーウィンの「種の起源」を誰かプレゼントしてはどうだろうか。
www.iwanami.co.jp/book/b442802.html

原著を読まなくても、優良な解説書が入手できるのは幸せなことだ。
それに、海外で出版された外国語の書籍であっても、翻訳によって日本語で読めるのも幸せなことだ。

翻訳者のおかげで日本語で様々な知識を得られることを、日本人はもっと感謝してもよいのではないか。
「日本はすごい」と言いたいなら、誰かが主張する「民度」ではなく、世界中の知識に日本語でアクセス可能にしていることを挙げてほしい。

通常国会も終わって日曜日は自宅にいるようだから、安倍首相はゴルフに行かなければ、本を読む時間がたくさんあるだろう。

念のために明記しておくと、この本はおとなも楽しめる絵本であり、決して安倍首相が小学3年生レベルだと言いたいわけではない。

追記(6月23日):
自民党の二階幹事長が記者会見で、進化論の誤用に対する批判をけむに巻いたそうだ。
東京新聞の記事は次のリンクから。
www.tokyo-np.co.jp/article/37391

【自民党の二階俊博幹事長は二十三日の記者会見で学識のあるところを披瀝したのではないか。ダーウィンも喜んでいるでしょうと語り、批判をけむに巻いた。】

自説を無関係なことに悪用されて、喜ぶ科学者などいない。
正しい情報を伝えようとした人たちを、「学識のあるところを披瀝した」かった程度の者だとからかっている。

自民党幹部は揃って反知性主義のようだ。
エリート嫌いというのか、アカデミックで知的な話をする人は嫌いなのだろう。

義理と人情の二階幹事長は読まないかもしれないが、理解しやすい絵本を贈って、基礎から学んでもらう方がよいだろう。

追記2(6月24日):
自民党がこの誤用ツイッターを削除できないのは、小泉内閣時代の国会所信表明演説に出てくるからではないのか。
2001年9月27日の第153回国会における所信表明演説の内容は次のリンクから。
www.kantei.go.jp/jp//koizumispeech/2001/0927syosin.html

(むすび)のところに以下のように出てくる。

【いよいよ、改革は本番を迎えます。我が国は、黒船の到来から近代国家へ、戦後の荒廃から復興へと、見事に危機をチャンスに変えました。これは、変化を恐れず、果敢に国づくりに取り組んだ国民の努力の賜物であります。私は、変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています。
 私たちは、今、戦後長く続いた経済発展の中では経験したことのないデフレなど、新しい形の経済現象に直面しています。日本経済の再生は、世界に対する我が国の責務でもあります。現在の厳しい状況を、新たなる成長のチャンスと捉え、「改革なくして成長なし」の精神で、新しい未来を切り開いていこうではありませんか。】

自称1000万円翻訳者・浅野正憲の怪しい講座について、私も含めて批判を続けている翻訳関係者は一定数いる。

2019年の翻訳祭の後に、私の翻訳会社でも1度話題になったが、今ではもう相手にしていない。
日常の業務が忙しいし、特許翻訳には参入する能力はないようだし、ドイツ語翻訳にも無関係なので、いずれ自然淘汰されるだろうと思っていた。

しかし、語学力が足りないだけではなく、守秘義務などのビジネスマナーすら身につけていない人たちが増産されているため、ドイツ語翻訳には無関係などと言って傍観してはならないと感じた。

最近は中日翻訳にも参入したようなので、ドイツ語翻訳もいずれは標的になるかもしれない。
彼が勧める企業のウェブサイトや製品マニュアルの和訳は、私も年に数件受注しているからだ。

「自分に無関係の人たちが被害に遭っているだけだ」などと傍観しているうちに、いつの間にか自分の身が危うくなっているかもしれない。
そのときに慌てて反対意見を言っても、もう遅いことになる。

仕事が終わってから、または休日の勉強の合間などに、微力ながらこのブログで批判記事を書いてきた。
それは、不正を行う翻訳者は、本人が損をするだけにとどまらず、関係した多数の人々を巻き込んでしまうからだ。

それでも、批判記事について、誹謗中傷ばかりしていると言う人はいるし、翻訳で毎日忙しいはずなのに書く暇がよくあるものだとか、非生産的な行為だとコメントする人もいる。
同業者から言われてしまうこともあるので、自称1000万円翻訳者は、立場を理解してもらえたと誤解することだろう。

私には、怪しい翻訳講座を凌駕するほどの大規模セミナーを開催する能力はないかもしれないが、できる範囲でJTFのセミナーや学会でも発表しているし、機械翻訳に関する雑誌記事にも協力している。

また、ブログを通じて連絡のあった方にドイツ語勉強法を伝えたり、ドイツ旅行に行く方には旅行会話を教え、神学生にはルター聖書などの解説もしたことがある。
私は、自分にふさわしい場所で、適切な方法を用いて、ドイツ語の普及に貢献しようと努力している。
その努力は、あまりにも小さく目立たないものだが、「呼ばれた場所で働く」という基本姿勢で取り組んでいる。

それで、私が一番気にしているのは、語学力の問題よりも、守秘義務や著作権保護などのビジネスマナーの件だ。

インサイダー情報に触れることもある翻訳者は、例えば、多言語による世界同時発表のプレスリリースなどの翻訳で、発表前に機密情報を知ることもある。
その講座の受講生のように、疑問点があるからといって講師に見せて相談したら、とんでもないことになるだろう。

私が一番被害を被ったと感じたのは、字幕翻訳チェック案件での著作権侵害事件だ。

過去に他の劇場で公演されたことがある演目だが、世界的に有名なクライアントの劇場は、完全にオリジナルの字幕を依頼してきた。
しかし、私には時間的余裕もないので、他の翻訳者に依頼してもらい、チェックを担当することになった。
その翻訳者は、ネット上に公開されていた演劇ファンによる台本の和訳をそのまま使った。
私はそれに気づかずにチェックして納品してしまった。

数か月後に翻訳者の違法行為が発覚して、チェック料金の$132を返金することになった。
私はそのとき、「この翻訳会社との取引も終わってしまうのではないか」と、とても不安になってしまった。
不正行為に加担した翻訳者として告発サイトに登録されたら、もう続けられないとまで考えていた。

運よく私へのドイツ語和訳の依頼は続いているものの、翻訳会社は、そのクライアントとの取引が今後一切できなくなったはずだ。
その字幕を使ったクライアントが著作権侵害をしたことになり、もし訴えられていたならば、翻訳業務の違約金だけで済むことはないだろう。

1人の手抜き翻訳者の安易な行為で、クライアント、翻訳会社、チェッカーが巻き込まれ、取引が続いていれば得られたであろう将来の収入までも消えてしまった。

機械翻訳よりもひどい翻訳を納品する人もたまにいて、チェッカーの料金が安すぎると文句を言いたくなることもあるが、違法行為をしていないだけましかもしれない。

ただ、あの怪しい翻訳講座では、講師本人がビジネスマナーを教えていないので、どこかで同様の事件に巻き込まれるのではないかと危惧している。

私のブログや他の SNS 投稿に対して非生産的な批判を繰り返していると言う人も、知らないうちに自分の身に降りかかるリスクを考えた方がよいと思う。

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