2017年10月

今日10月31日は、ハロウィンということで、都会の繁華街は騒ぎとなっているようだが、宗教改革記念日である。
ドイツ留学中、私が住んでいたヘッセン州では、残念ながら祝日ではなかったが、チューリンゲン州などでは祝日になっている。

私はプロテスタントであるが、ルター派ではないので、この日を特別に祝うということはない。
ただし、ルターの発した95ヶ条の提題などは、「聖書のみ・十字架のみ」の信仰を語るうえで、プロテスタントの特徴を表していると言えるだろう。
神の恵みは金では買えないのだし、人間の思いに囚われずに、神の御心を尋ね求める信仰生活に専念した方が幸せになるだろう。

ルターが、現代のドイツ人、カトリックにも、無神論者にも、ユダヤ人にも、そしてイスラム教徒にも影響していることを、ZEIT紙が記事にしている。
www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2017-10/reformationstag-martin-luther-feiertag-95-thesen

その中で今日は、翻訳を仕事にしているので、ドイツ語への影響について読んだ。
ルターがメランヒトンなど10名の仲間と協力して、ヘブル語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳したことは有名である。

その後、何度か改訂されて、宗教改革500年記念事業として、2015年に最新の改訂版ができた。
ルターが犯した誤訳を訂正したり、最新の研究を反映して、訳語を見直した。

特に話題となったのは、マタイによる福音書第8章24節の 「Sturm (嵐)」 が 
「Beben (地震・震動)」 に変わったことだ。
これは、ギリシャ語の seismos の意味をそのままドイツ語に訳すことにしたためだ。

ただし、他の個所では Erdbeben になっているが、ここだけ Beben である。
「地震」というよりは、弟子たちの信仰の「動揺」も表現するために、「Beben」になっているのだと思われる。

16世紀のルターのドイツ語とは変わってしまったものの、それでもドイツ語学習者にとっては、様々な慣用表現の由来となっているため、ルター聖書を参考文献として読むことも必要である。

例えば、「~を大切に思う」というドイツ語は、~ auf Händen tragen (両手に乗せて運ぶ) であり、これは詩編91編12節に由来する。

Luther 2017: dass sie 
dich auf den Händen tragen
           und du deinen Fuß nicht an einen Stein stoßen.
新共同訳: 彼らは
あなたをその手にのせて運び
        足が石に当たらないように守る。

ZEIT紙の記事では、箴言からの諺が紹介されている。

箴言第16章18節からは、Hochmut kommt vor dem Fall (おごれるもの久しからず)。
新共同訳では、「つまずきに先立つのは高慢な霊」

ここで Hochmut (高慢)というドイツ語をルターが作ったと言われている。

箴言第26章27節からは、Wer andern eine Grube gräbt, fällt selbst hinein. (人を呪わば穴二つ、他人のために穴を掘る者は自分が穴に落ちる)
Luther 2017: Wer eine Grube gräbt, der wird hineinfallen;
新共同訳: 穴を掘る者は自分がそこに落ち

他にもたくさんあるので、これからも1つずつ紹介するのもよいだろう。
ドイツ語の勉強のついでに、聖書の言葉が人々の間に広まることにもなるだろうから。

私は資格試験を受験しようという意識があまりない。
アマチュア無線技士の免許は、これがないと開局できないため、取得したものの、一番下のランクの免許のみである。

語学系の資格として、中学校では英検の受験を勧めていたが、これまで一度も受験したことがない。
その代わりに、ドイツ語技能検定は新2級まで取得した。

TOEICを受験したのは、企業研究職の募集要項に、「スコア800以上」と書いてあったので、履歴書に書くためだった。
加えて、ドイツ留学から帰国後、英語の勉強を再開したことに合わせて、現状を確認するためでもあった。

他に研究所での業務で必要な資格として、甲種危険物取扱者となったが、今は翻訳者なので、利用価値はあまりない。
もし教会で、自治体に協力して、防災備蓄として燃料などの保管をすることになれば、私が管理者になるだろう。

すべての資格試験ではないが、受験日が日曜日ということが多い。
キリスト者にとって日曜日は、安息日なので、日常生活から離れて、教会で過ごす日である。

そうは言っても、勤務先の都合で出張に行っている人もいれば、部活の指導者であるために試合に行く人もいれば、朝の礼拝後に急いでTOEIC受験会場に行く人もいる。

私の場合、さまざまな奉仕が待っているので、日曜日に個人的な用事を予定することは不可能である。
しかも、昨日は、教会で重要視されている行事があり、これまでと同様に、私の参加は当然視されていた。

ところが今年は、日本知的財産翻訳協会が主催する知的財産翻訳検定の試験日と重なってしまった。
試験の案内は次の通り。
www.nipta.org/Exam_J.html

この資格は、翻訳会社で働く場合、クライアントに信頼されるために必要だ。
今年からドイツ語が加わり、初回なので、翻訳会社としても合格者を出してアピールしたいところだ。

そのため、教会の役員数名に相談して、試験を優先することに決まった。
私が担当する予定の仕事は、相談した役員の1人に交替してもらうことになった。
そして私が手伝ったのは、1週間前と前日の会場設営である。

試験当日、12時過ぎに教会から電話があった。
行事で使うはずだった備品が見当たらないため、私に確認の電話だった。

試験終了後に、すぐに教会に行けるように準備して、問題のメール送信を待った。
試験開始の約10分前にメールで問題が届いた。
ワードファイルを開いて、受験番号と氏名を入力して、上書き保存をした。
一度ファイルを閉じてから、再度開いて、先ほどの入力が反映されていることを確認した。

開始前に問題文を印刷して、14時に解答の入力を開始した。
問題は3問あり、実際のドイツ語特許の明細書から出題された。
試験前に分野は特定されていなかったので、少々心配していたが、ざっくり言えば、機械・電子系なので、よく見るような内容であった。

ただ、最近の特許から出題していることもあり、私にとっては初めて見る装置名などもあり、多義語も含めて悩む個所があった。
それでも3時間の試験時間のうち、2時間20分で最後まで解答し、残りの40分で2回見直しできたので、ある程度の自信をもって提出できた。
合格するかどうかは、それは私が判断することではないので、発表を静かに待つことにしよう。

ただ、行事の日に休んだのに合格しなかったとなると、いろいろと嫌味を言う人がいるかもしれない。
キリスト者というのは、決して善人ではない。
教会も人間関係でさまざまな問題をかかえている。

試験が終わった後、台風が関東に接近する中、教会に向かった。
少人数の夕礼拝で心の平安を得て、いつものメンバー? で、行事と試験の打ち上げを兼ねて、ビール片手に、教会の将来も含めて語り合った。

クリスマスになると、私は聖歌隊で歌い、加えて行事関係の委員なので、また忙しくなるだろう。
年明けも、映画鑑賞会をするので、また忙しい。
手伝ってくれそうな若者が増えることを祈ろう。

entsagen
自 (h) ((雅)) ((et.3)) (…に対する)欲望を抑える,(克己して…を)あきらめる:
einem Anspruch entsagen 権利を放棄する

Abe möchte vor allem Artikel 9 der Verfassung revidieren: Darin entsagt das japanische Volk 
"für alle Zeiten dem Krieg3 als souveränem Recht der Nation". Überdies verpflichtet es sich, 
"keine Land-, See- und Luftstreitkräfte" zu unterhalten.
安倍は特に憲法第9条を修正したいと思っている。その条文で日本国民は、「国権の発動たる戦争を永久に」放棄している。そのうえ、「陸海空軍を保持しない」ことを誓約している。
("Wahlsieger Shinzo Abe: Japans Anheizer", SPIEGEL Online, 23.10.2017,
www.spiegel.de/politik/ausland/wahlsieg-in-japan-shinzo-abe-will-pazifistische-verfassung-aendern-a-1174169.html

今回の衆議院議員選挙でも、期日前投票をした。
日曜日は教会での奉仕があり、滅多にないことではあるが、夕方の礼拝まで出席する可能性もある。
そうすると帰宅は午後10時頃になるため、今の住所に転居してからは、期日前投票をしている。

以前は、自宅と最寄り駅の間の小学校が投票所だったため、いつもより10分くらい早く自宅を出て、投票してから教会に向かっていた。
今の住所地の投票所は、駅とは反対向きに20分くらい歩くことになるため、投票日当日朝に1時間近く早く出るのは困難な場合もある。

自転車で投票所に行き、朝一番に投票して、すぐに自宅に戻って着替えればよいかもしれないが、今日のように雨だと困難だ。
加えて、日曜日に教会以外のことで時間をかけたくはないため、期日前投票をする方がよいと思っている。

実際に今日は、15時15分頃まで教会で奉仕していた。
礼拝後の聖歌隊練習が終わった直後に、昼食をとる間もなく、バザーの準備をすることになった。

今日は台風対策のために帰宅したからなのか、それともバザーの準備を手伝いたくなかったのか、男性が少なかった。
30代の男性2名が先に手伝っていたが、重い物を運んだりするには人手が足りないということで呼ばれた。

準備がある程度進んでから、14時過ぎになってようやくコンビニに行くことができ、サンドイッチなどを食べて、また作業に戻った。

このように、自分のペースで奉仕できないことを嫌がる人は、礼拝後すぐに帰宅することもある。
バザーの優先順位が高いと考えている人も多く、手伝わない人を批判する人もいるので、少々困ってしまうこともある。

選挙の話に戻ると、転居して1年半と短いこともあり、地元選挙区の区分けだけではなく、現職が誰なのかも知らなかった。
たまに駅前で、国政報告のビラを配っていることもあるが、名前はまったく覚えていなかった。
そのため、いつものことだが、政党で選ぶこととなった。

気になるのは、実家の選挙区である。
高校の同級生が民進党だったが、なぜか希望の党に移籍して立候補した。
先ほど見たら、当確が出ていた。

民進党時代に国会でいろいろと質問していたのだが、党が変わって主張がどうなるのか、これからも質問に立つのかどうか、気になるところだ。

本人のツイッターの他にも、3日くらいすれば実家から新聞が届くと思われるので、いろいろと確認してみよう。

今朝のNHK総合・週刊ニュース深読みでは、臓器移植法20年を迎えたことに関連して、臓器提供の意思表示について取り上げていた。
www.nhk.or.jp/fukayomi/maru/2017/171021.html

私は既に、運転免許証の裏にある臓器提供意思欄で、脳死後でも心臓停止後でも、いずれの場合も臓器提供をすることを明示している。
これで十分かもしれないが、念のため、健康保険証の裏でも、同様に臓器提供の意思表示をした。

臓器提供意思欄について、日本臓器移植ネットワークの説明は、以下の通り。
www.jotnw.or.jp/donation/method.html

私が死ぬ場合を考えているとは、周囲の人たちはあまり考えていないようだが、交通事故死の可能性があると思っているので、すぐに対応してもらえるように意思表示している。

自転車に乗っているときの事故で、これまでに3回骨折しているので、ヘルメットを着用していても、死ぬことがあるかもしれないと考えている。
危険運転をする人に追いかけられたこともあるので、最近のニュースのように、殺される可能性もゼロではない。

ところで、番組に出演した専門家の発言として、ヨーロッパではキリスト教の考え方から、臓器提供の意思表示をする人の割合が、日本よりも多いというものがあった。

キリスト教では、私の命も肉体も、すべて神とイエス・キリストのものであると考えている。
神から命と肉体を与えられて、この地上に派遣されたのだから、地上での命が終われば、私の肉体は神が望むように、例えば、臓器移植で他の命を救うために用いられることが、私の喜びにもなる。

地上に残された家族や友人も、私の死によってのみ生かされる命があることを理解し、臓器移植に賛同してくれると信じたい。

しかし、すべてのキリスト者が、臓器提供を望んでいるわけではない。

ある神学者と対話したとき、他人の死を待っているように思えるので、臓器提供はしたくないし、移植してほしいとも思わない、と言っていた。

臓器提供者を待つ患者やその家族は、他の治療法がないため最後の手段なのであるが、実際には、他人の死を待つことになる。
その思いとは、生きることに執着する人間主体の肉の思いなのだろうか。
それとも、神が本当に、病に苦しむその人を救いたくて、他の臓器提供者になる人を先に天に送ることにしたのか、それは人間にはわからない。

生前の意思表示が大切だということは、父が他界したときに痛感したし、臓器提供に抵抗がないのは、既に骨髄ドナーとして提供したからかもしれない。

私の父は、私のドイツ留学中に他界した。
その当時は、まだ臓器移植法がなく、父は臓器提供の意思表示をせずに亡くなった。

そのとき母は、臓器提供の可能性について、入院していた病院で相談していた。
がんが各臓器に転移していたため、内臓は使えないだろうということになり、角膜のみをアイバンクに提供することにした。
私が帰国してからでは間に合わないため、母は独断で提供を決めた。

父は以前から、障碍者を持つ家族同士は助け合わなければならない、と言っていたため、私たち家族は、父の意思を尊重したと思っていた。
それに、角膜という一部であっても、この世に存在して、誰かに幸せを与えていると思うと、死別の悲しみは薄らいだ。

しかし、この決定は、父方の親族の怒りを買うことになった。
嫁が勝手に遺体に傷をつけた、と騒ぎだし、葬式の段取りが出身地と違うことでも文句を言い始めた。
祖父母の財産相続について争っていたことに加えて、葬式の時にも対立するなんて、人間が更に嫌いになってしまった。

このような体験から、生前に臓器提供の意思表示をして、家族の同意をとることは大切だろう。
それでも、親族の同意までは求められないため、同様に反対する人はいるかもしれないが、最低限、本人の意思であることは明確にされる。

私が骨髄バンクに登録したのは、大学院で研究生活をしていたときである。
健康な体を何に役立てればよいのかと考えていた頃、テレビで骨髄バンクのドナーが足りないことを知った。
私は白血病の特効薬を発明するような能力はないため、この健康な体をそのまま治療に使ってほしいと望み、献血のついでに登録した。

このとき家族の同意書には、父が署名してくれた。
しかし、研究第一と考える大学の研究室では、理解してもらうことは困難であった。
「学会などで忙しい時期に選ばれると困る」、「謝礼がもらえないのに、どうして無関係の他人を助けるのか」という意見があり、反発してしまった。

ドナーを断念した事例として、勤務先が休暇を認めなかったり、同意していたはずの家族が反対したということもある。
リスクを嫌う人たちや、ボランティア活動を職場に迷惑をかける自分勝手な活動と思っている人たちがいることも、現実である。

実際に提供したのは、父の死から約1年後、既に日本に帰国していたが、希望する職場ではなく、日本が嫌になっていた頃だった。
当時は、パワハラ教授と対立していて、学生を擁護する発言などで嫌われたため、退職届の提出を要求されていた。

そんなとき、骨髄バンクから、患者と適合したため精密検査を受けてほしいという通知が届いた。
患者の命を救うために日本に呼び戻されたのだ、という、何か目に見えない力で動かされている感覚がした。
仕事は苦しいが、学生を助けるため、そしてドナーの準備をするために、仕事を続けるモチベーションが強まった。

実際に提供して麻酔から覚めると、患者を救えたことの充実感と共に、健康な体を与えられたこと、生かされていることそのものに感謝して、命があれば他には何もいらない、と思うようになった。

このとき、研究者としてのキャリアや収入などの、この世の価値観、つまり偶像から解放された。
この体験も、私のキリスト教信仰の中心をなす1つである。

骨髄を提供しようというのは、私の意思表示ではあったが、試練の中で、骨髄提供によって神からのメッセージを受け取ったと解釈できたため、キリスト者になった。

この体験から、私の健康な体を他者のために用いてほしいという気持ちはより強くなり、そして洗礼を受けて私の体は神のものになったため、脳死後に臓器提供をすることには、全く抵抗はない。

もし交通事故のときは、実家の母が来るまでに時間がかかるだろうから、教会の役員に対応してもらうように頼もうかと思う。
ただし、意思表示した私を過剰に評価したり、キリスト者だから臓器提供に賛成するようにと、他者にプレッシャーをかけることはしないでほしいものだ。

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