2018年04月

注:保存済み投稿を公開する。
(最終チェック・修正日 2018年02月18日)

ドイツ語の表現には、ルターのドイツ語訳聖書から取られたものがある。

辞書の語義説明では、元になった聖書個所が明記されているし、解説した専門書もある。

実際にドイツメディアの記事を読んでいると、聖書の内容そのものを知っていた方が、理解しやすいこともある。

ローマ法王を選ぶコンクラーベのときには、イエスを知らないと3度言ったペトロについて新約聖書から引用して、どうして法王に完璧さを求めるのか、という記事があった。

ペンテコステの時期には、EUの分裂についての記事があり、ヨーロッパ精神という人間が作った概念ではまとまらない、言葉も国も違う人々をまとめるのは神の力のみとあった。

また、ノーベル物理学賞で青色発光ダイオードの研究が選ばれたときには、記事の見出しが 「こうして青い光があった」 と、創世記の表現を借りたものだった。

そして今日は、平昌オリンピックのフィギュアスケートで羽生選手が金メダルを獲得したという記事の中に、出エジプト記を知っていると理解できる表現があった。

Die Zeit の記事は次のリンクで、書き出しは以下の通り。
www.zeit.de/sport/2018-02/yuzuru-hanyu-eiskunstlaufen-winnie-pu-japan/komplettansicht

Da fielen sie wieder vom Himmel, wie Manna, das in der Bibel die Israeliten nährte. Nur hatte sich die Sache dieses Mal nicht der liebe Gott ausgedacht, sondern die Kuscheltierindustrie.

そこにそれは、聖書ではイスラエルの民を養ったマナのように、再び天から落ちてきた。ただし、この出来事を今回生み出したのは愛する神ではなく、動物のぬいぐるみ業界だ。

モーセが率いてエジプトから脱出したイスラエルの民は、荒れ野で食べ物がなかったが、神がマナというものを毎日天から降らせて、飢えることがないようにしてくれた(出エジプト記16章)。

特許翻訳には出てこないことだが、教会でドイツ語を教えたり、ドイツ語学習者に聖書の話をするときに、このような記事を参考資料に使ってみよう。

追記(2月18日):
「くまのプーさんが雨のように降った」でもよさそうだが、どうして出エジプト記のマナの話を比喩として使ったのか、もう少し考えてみたい。

1つは、
くまのプーさんは、羽生選手に活力を与えるものとして、イスラエルの民にとってのマナと同じくらい大切なものということだ。

もう1つは、これは考えすぎかもしれないが、山のように積まれたぬいぐるみに対して、羽生選手が神の意思を反映した扱いをするかどうかが試されているということだ。

神は、イスラエルの民が飢えないようにマナを与えたが、その目的は、指示通りにするかどうかを試すことであった。
毎朝、各自必要な分だけを集めるのだが、翌日の分も余分に集めて残してはならなかった。
その行為は、毎日必要なパンを与えると約束した神を、信じていないことになる。

他の報道や、引用した記事の後半にも書かれているように、羽生選手は以前から、ファンが投げ込んだぬいぐるみのうち数個のみを記念として持ち帰るが、ほとんどをスケート連盟や試合開催地の団体に寄付して、子どもたちへのプレゼントにしている。

ファンとしては、自分が投げたぬいぐるみを羽生選手が持ち帰ることを望むかもしれないが、それは人間の思いを優先することになる。

神の意思は誰にもわからないかもしれないが、もしかすると、羽生選手が、自分が受け取った喜びや幸せな気持ちを、ぬいぐるみの寄付を通じて子どもたちに分け与えることなのかもしれない。

子どもたちからすれば、羽生選手からのプレゼントということで、大切な思い出になるだろうし、様々な困難な状況にある子どもたちに勇気を与えるかもしれない。

IOCは、スポンサー契約の都合で、くまのプーさんが映像に入り込むことを嫌がっているそうだが、羽生選手からプーさんをもらった子どもたちが喜んでいる姿を見てもらえれば、考え直してくれるかもしれない。

2015年10月に刊行された、ルター訳聖書の改訂版は、元のヘブル語とギリシャ語の最新の研究結果を反映したということだ。
そのため、以前とは使用する単語が変わった部分がある。

例えば、以前の記事でも紹介したように、マタイによる福音書第8章24節 「そのとき、湖に激しいが起こり、舟は波にのまれそうになった。」(新共同訳) では、「嵐(Sturm)」の部分がギリシャ語では seismos であり、改訂版では 「震動/地震(Beben)」 に変更された。

また、パウロの手紙に出てくる呼びかけの 「adelphoi (兄弟たち、engl.: brothers)」  は、当時の教会では男女の区別なく使われていたため、今回の改訂版では、「Brüder und Schwerstern」 になっている。

2018年12月刊行予定の聖書協会共同訳では、「きょうだいたち」 と、ひらがな書きにして、男女両方を含めた表現にするそうだ。

ということで、日本語訳での問題点として、例えば、名詞が単数なのか複数なのか、動詞が過去形なのか現在完了形なのか、へブル語とギリシャ語では読めない場合でも、ドイツ語聖書を介して確認することができる。

厳密には、原文を読まなければならないが、それは今後の課題ということで、今はドイツ語の知識を利用して聖書を読むことを優先している。

英語ではなくてドイツ語の聖書を使うのは、例えば、今回示すように、動詞の命令形が2人称単数なのか2人称複数なのかを確認したいからだ。

現代の英語では、2人称は単数も複数も you であり、文脈で判断するしかない。
そして、命令形での動詞は、原形と同形のため、同様に単数か複数か、文脈で判断するしかない。

それに対してドイツ語では、例えば、「飲む trinken」 の命令形は、2人称単数の du に対しては trink〔e〕 で、2人称複数の ihr に対しては trinkt と異なるので区別できる。

例えば、テサロニケの信徒への手紙I 第5章16節 「いつも喜んでいなさい。」 は、英語・欽定訳では、Rejoyce always, で、人称変化がなく、日本語でも英語でも、文脈で複数が対象だと考える。

ドイツ語では、Seid allezeit fröhlich,  と、2人称複数 ihr に対する命令形であることが確認できた。
ギリシャ語でも、2人称複数に対する命令形になっているそうだ。

このように、英語以外の言語も使える方が情報量が増えるので、英語一辺倒の意識を変えてほしいものだ。

↑このページのトップヘ