2019年10月

私は英日/独日翻訳者として登録している。
ドイツ語の案件に取り組んでいるときには、英日翻訳の案件が来ても同時にはできないので、代わりに外注のフリーランス翻訳者が和訳したものをチェックしている。

このチェックでの経験について、具体的な特許を示すことはできないのだが、一部改変してメモしておきたい。

そのフリーランス翻訳者は、ある化合物名について、「化学物質のデータベースなどで検索したが見つからなかった」というコメントを残していた。

その化合物そのものを示すことはできないので、以下に示した fuchsone(フクソン)の誘導体とだけ言っておこう。
調査結果を先に言えば、その特許では、suchsone と誤記していた。

請求項にも出てくる重要な化合物なので、クライアントに誤記であると伝える必要があるから、単に見つからないで終わらせずに、誤記であると断言して、正しい化合物名も見つけてほしかった。


私は有機化学の研究で博士号を持っているが、すべての化合物の慣用名を知っているわけではない。
その化合物の構造式を見ても、fuchsone という慣用名を知らないので、suchsone が誤記だという自信はなかった。

翻訳者は検索しても見つからなかったと言っているが、念のため suchone で検索してみると、ある文献がヒットした。
その文献には fuchsone と書いてあったので、OCRで f が s と誤認されて、検索結果に反映されたのかもしれない。

更に確実にするには、IUPAC名で検索することだ。
fuchsone は、4-(diphenylmethylidene)cyclohexa-2,5-dien-1-one になる。

この IUPAC名で検索すると、次のリンク先などの化合物データベースのサイトが見つかる。
pubchem.ncbi.nlm.nih.gov/compound/287398
www.chemspider.com/Chemical-Structure.253413.html

そのサイトで構造式も確認して、特許対象の化合物は、fuchsone の誘導体であることが確定した。

PCTなので、原文誤記のまま和訳しなければならない。
suchsone を翻訳者は「サクソン」にしていた。
日本化学会の日本語名称の作り方にある字訳規準表に従うと、「スクソン」になる。

化学専門ではない翻訳者が特許翻訳をすることも多いので、専門家の私がチェックする意味はあるのだ。

また、語学能力に加えて検索能力も重要と言われるが、どういったキーワードで検索するのか、そして検索結果をどう解釈するのか、検索するにも専門分野の知識が必要だ。

中山豊、「中級ドイツ文法」(白水社)209ページから

要求話法とは
 要求話法は広い意味では命令から要望,懇請,願望に至るまでの様々な言語的表現手段を含むものですが,ここでは,接続法I式を用いた要求表現のみを要求話法と言うことにします.

  Man nehme täglich dreimal eine Tablette.
 毎日3度1錠ずつ服用のこと.

 今日のドイツ語では第I式は,不定詞句,話法の助動詞,命令法などを用いた要求表現ほどには用いられなくなっています.

不定詞句:  Täglich dreimal eine Tablette nehmen.
助動詞:   Man soll täglich dreimal eine Tablette nehmen.
命令法:   Nimm täglich dreimal eine Tablette!
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有機化学の本から、要求話法の接続法I式の用例を引用しておこう。
置換アルカンの命名法についての説明の一部である。
Eberhard Breitmeier, Günther Jung, "Organische Chemie" (7. Auflage 2012), Seite 28

  Man suche die längste Kohlenstoff-Kette mit der höchsten Zahl von Substituenten.
 置換基の数が最大である最長の炭素鎖を探すこと。

海外の翻訳会社から返事がないこともあり、国内の翻訳会社から約1900ワードの英日翻訳を受注した。
海外メーカーの化学品の安全データシート(SDS)だ。
既に受注済みの案件ということで、化学が専門の私に回ってきたようだ。

ワード単価は10円。
これは消費税増税前に改めて契約した税抜き金額である。
消費税10%が上乗せされて、源泉徴収10.21%が引かれることになる。

2万円にならない案件であるが、来年のオンライン辞書の年間使用料を稼いだと考えよう。
このような短い案件もコツコツと処理することで、信頼を得たいものだ。

担当者からのメールには、英語原文にドイツ語が混ざっているかもしれないとあった。
翻訳開始前にざっと目を通したが、ドイツ語らしい単語はなかった。
その代わり、イギリスのメーカーの製品なので、英単語のつづりが英国式である。

実際に和訳を始めてみると、ドイツ語の単語は1つもなかった。
もしかすると、ラテン語由来の病名が、ドイツ語に見えたのかもしれない。

海外の翻訳会社からスケジュールの確認があった。
約1万ワードの案件なので、確実に処理できる翻訳者を探しているようだ。
ここの翻訳料金は、いつもUS$で提示されるが、今回はユーロ建てで約2000ユーロ。
受注したいところだが、平日日中は作業できないので、10日以上先の日に納品ならば可能と返答した。
多分チェックに回ることになるだう。

その代わりに、国内翻訳会社から短い日英チェックの仕事を受注した。
日本メーカーの販促用資料の英訳で、ここ2年程続いている仕事だ。
今回もそれほど修正する部分はなく、その企業のHPで製品名などを確認するくらいで、夕食後に1時間半で処理して納品した。

その企業の商標・登録商標の英語名について、念のためその企業のHPで確認したところ、翻訳者が間違って記載していた。
その資料の最後のページには、商標・登録商標の一覧があったが、それは翻訳対象外だったため、翻訳者は気づかなかったのだろう。

実例を出せないのだが、その企業独自の技術の名称を、表記も発音も似ている「メッキ」と勘違いして英訳していた。
金属の表面処理の資料だったので、メッキでもよさそうだが、そうすると原文誤記の指摘をしなければならない。
ということで、企業のHPでその独自の技術に関する説明を見つけて、英語表記も確認できた。

この間違いを修正したことだけでも、チェックした意味がある。
このように翻訳は、一人で行うものではなく、何人もの共同作業によって納品物になるのである。

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